大友宗麟とキリスト教

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石仏もあれば、キリシタンの墓もあるというユニークな臼杵ですが、キリシタン墓群が平成23年(2011年)に発見されました。これにはやはり臼杵の町の礎を作ったキリシタン大名の大友宗麟の存在なしでは語れません。キリシタン大名となった大友宗麟ですが、当然西洋文化もどんどん取り入れたはずです。戦国時代の武将は、やるかやられるか熾烈な時代ということもあってもちろん大友宗麟もかなり波乱万丈な人生をおくった武将の一人ですが、日本にキリスト教を伝来した、カトリックのイエズス会神父のフランシスコ・カブラルから洗礼を受けて「ドン・フランシスコ」と名乗って正式なキリスト教徒になりました。

大友宗麟に洗礼を施したフランシスコ・カブラルが、かなり冒険者典型の差別的な考えにどっぷりと染まっている人物なので、よりによってなんでこの人に?と思ってしまいますが、大友宗麟はキリスト教にすっかり魅了されて禅宗から改宗しました。大友宗麟がキリシタン大名だったことから、つい長崎ばかりにキリスト教が色濃く残っているといわれていますが臼杵も、キリスト教の色が残っているのを感じることができるでしょう。

当時のキリスト教の中心地

南蛮文化の渡来で、安土桃山時代の戦争の様子が一気に変わったのは「鉄砲」です。鉄砲が種子島に伝来してから、戦国武将の戦い方がかなり変化しました。そしてキリシタンとなった大友宗麟ですので、もちろん鉄砲をためしています。大友宗麟が若い頃に、南蛮人が鉄砲を持ってきたので大友宗麟が試し撃ちをした時に、鉄砲が暴発してしまって弟が手に怪我を負ってしまいました。

その時にポルトガル人の医師、そしてアシスタントに日本人の医師2名合計3名によって手術が行われました。これがまさに日本の初となる西洋外科手術発祥の地となりました。大友宗麟は、キリスト教の宣教師から伝えられた西洋医学の診療所も作っていますので、かなり他の領主とくらべると領民思いであることの証明といえるでしょう。もちろん領民の診察は無料というのが、ありがたいことです。

キリスト教都市

出島だけがキリシタンの町ではないです。臼杵の町もキリシタンがつくった町どころか、日本でキリスト教の布教方針を決める重要な会議も臼杵で開かれていたことから、日本でキリスト教を布教するための中心的な役割を担った都市でもありました。

キリスト教に最大の理解を示したといわているのが、大友宗麟です。大友宗麟とキリスト教との出会いは、天文20年(1551年)に教科書に登場するキリスト教を日本で一番最初に伝来したキリスト教カトリックイエズス会の宣教師のフランシスコ・ザビエルです。フランシスコ・ザビエルは豊後へキリスト教を布教するためにやってきて、そこで大友宗麟はキリスト教と出会いました。フランシスコ・ザビエルを通じてキリスト教と出会いますが、ザビエルが4年後にインド目指して布教活動に行った後は、ザビエルから日本でのキリスト教の布教を託されたコスメ・デ・トーレス宣教師によってキリスト教を知る事になったと思われます。

コスメ・デ・トーレス宣教師は、地道な宣教活動を行って九州や山口などで着実にキリスト教が広まりました。戦国時代ということもあって、戦乱の中での布教活動でしたが日本人協力者もふえ、1563年に初のキリシタン大名が誕生します。初のキリシタン大名となったのは長崎港を開港したことでしられる大村氏の第12代当主の大村純忠です。

大友宗麟が洗礼を受けたのは、ザビエルではなく別の宣教師フランシスコ・カブラルから27年後に臼杵の教会で洗礼を受けていますが、大友宗麟領主自らキリスト教に改宗したことで領内でのキリスト教の布教を保護して、南蛮貿易も行いました。そして宗麟が選んだ洗礼名の「フランシスコ」という名前は、若き日に宗麟が出会ったフラシスコ・ザビエルの追憶から、宗麟自らが「フランシスコ」を選びました。

キリスト教を保護しただけではなく、日本の中で一番美しい聖堂を建てたり、修道士たちのための教育機関の修練院も建てて、日本中からその修練院を見ようと見学者が訪れたほどです。キリスト教を保護する一方で、キリスト教を信仰するために神社や仏閣を徹底的に破壊するということを行いました。また大友宗麟自身が安息日を意識したのか金曜日と土曜日は断食をしたりもしたことが記されています。

平成23年に発見された「下藤キリシタン墓群」ですが、みつかったキリシタンの墓は49基という数でこの数は日本の国内最大規模になっているキリシタン墓となっています。江戸時代には幕府からかなり激しいキリスト教の弾圧があったことを考えると、見つかった「下藤キリシタン墓群」はほぼ完全な形で見つかっているのは、とっても珍しいことです。まだ一般公開されていませんが、キリシタン墓群の調査は進んでいます。

そして臨済宗の妙心寺派の見星禅寺の境内、隠れキリシタンを偲ぶことができる「マリア観音」があります。「マリア観音」は一言地蔵と呼ばれていて、隠れキリシタン時代の心の拠り所として、手を合わされたことでしょう。

隠れキリシタンが礼拝所に使ったとされる地下礼拝堂もあります。それは横穴式古墳を利用したと考えられていて、地上には洞穴を隠すようにしてお堂があります。ところが洞内にはいると、五輪塔には明瞭な十字が刻まれています。そして洞内の天上の中央にも十字が刻まれています。